ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
現在地 トップページ > 組織でさがす > 教育委員会 > 学びのまち推進課 > 史跡久喜銀山遺跡の歴史について紹介します。

本文

史跡久喜銀山遺跡の歴史について紹介します。

ページID:0001287 更新日:2026年1月13日更新 印刷ページ表示

 久喜銀山遺跡が開発された時期については不明な点が多く定かではありませんが、建久年間(1190~1199年)には鉱脈が発見され、弘安年間(1278~1288年)には「石見に笹ヶ谷、久喜両山開山す」と文書には記されています。

 17世紀末頃には、次第に生産量が減少し、18世紀初頭の石見銀山地役人の山中家に伝わる『山中家文書』に久しく稼ぎ人がいないと記されており、操業は停止していたようです。

 その後、明治時代に入り、「中国の銅山王」といわれた堀家が明治33年に久喜で銀と鉛鉱の製錬を開始し、堀家経営の鉱山でもっとも利益を生み出した明治36~37年を経て、明治40年には坑道が水没、明治42年には製錬を停止しています。

久喜銀山略年表
西暦 和暦 調査内容
1190年~1199年 建久年間

佐貫甚五郎右衛門利政が鉱脈を発見したといわれている。山神社・神宮寺を建立。

1278年~1288年 弘安年間 石見に笹ヶ谷、久喜両山開坑。
1530年 永禄3年 毛利氏に攻められ高橋氏滅びる。久喜周辺は毛利領となる。
1535年    
     
     
  縄手吹所跡現地踏査 広範囲にスラグの散布を確認(分館及び絵図の記述と一致)
  縄手吹所跡トレンチ調査 15~17世紀にかけての製錬関連遺構を検出
  縄手吹所跡トレンチ調査 15~17世紀にかけての製錬関連遺構を検出
  縄手吹所跡発掘調査 15~17世紀にかけての製錬関連遺構を検出
  大林採掘跡群分布調査 加工段(平坦面)を確認
  大林採掘跡群地形測量 加工段の地形測量
  大林採掘跡群地形測量 加工段の地形測量